意味や理由を必要としない決断ができたなら、
ゴッホの「ひまわり」は描かれるべくして描かれたのだと素直に思えるのです。
選択の連続による生活の延長で作品は必ず成立するのだとわたしは思いたいのです。
その決断は世界を狭めるのではなく、意味や理由を含めた多くのチャンネルを生成するのだと思います。
ゲルオルタナ 小林丈人(美術家)
本展にあたり、それぞれにゆかりのある方々へ事前にコピーを寄せていただき、それらを展覧会の紹介として使用させていただきました。
田中良太について
塩入敏治(65歳)サラリーマン・コレクターとして30年間、週末のギャラリー巡りを続けています。
ゲルオルタナという奇妙な名前のスペースで観たのが最初でした。パッチワークのようなイメージの構成は、具象とも抽象ともつかないシュールな感じが不可解でした。現代人のこころは複雑かつ多面的であれば、そこに表現された世界は一人の人格の多様な側面を反映しているように見えます。日々の生活で眼にした事象と、その距離感が一様でないのは、今を生きる鑑賞者に共感するところが多いです。
岡本政博(GalleryAn Asukayama)
アートバブルが弾けマーケットが冷え込みアーティストへも影響を与えている。
これまで、作家の主な活動の場はコマーシャルギャラリー、アートフェア、また、公募展、アートプロジェクト等であった。
ここゲルオルタナは作家活動のもう一つのモデル、作家運営のオルタナティブスペースである。
田中良太氏は展示企画に真正面から取り組み、気骨を持って制作に当たる。
混沌とした時代に実戦的活動のなかから生まれる作品を是非観たい。
真部 知胤 (彫刻家)
「3」という数字を、仰向けに寝かせてやると「おしり」になる。
ある日そのことに気が付いた私は、しばらくの間、チラシの裏やティッシュの箱など、家中の許されるところであればどこにでも、「おしり」を描きまくった。
良太くんのドローイングを見ていて思い出すのは、例えばそんなこと。
それから、何万年か昔、洞窟の奥にいろんな動物や図形を描いた人達のこととかも。
日高理恵子(画家)
「絵画にとっての一つのイメージには支配されたくないのです。」と語る田中良太さん。描いている自分でさえわからない、未知なる部分。描かれたひとつひとつが拮抗しあい、そこに立ち上がる、立ち現われてくる部分。これは描き手自身が支配できない、絵画への果敢な挑戦、絵画への貪欲な挑戦だと思う。
本多竜之介(編集者)
個人史に特化した制作、と昨年取材した際に田中良太は言った。内向的であるが、現代のリアリティに繋がるものなのではないか……と。シンパシーを得たというウェブサイトの画像検索のように、多くの不確かなイメージが流れてくる田中の描く絵画と向き合い、導き出したその答えは、今を生きる鑑賞者それぞれが内に秘めるリアリティなのかもしれない
大野綾子について
竹下都(金沢工業大学未来デザイン研究所 研究員)
なぜ石と云う素材を選んだのか。
なぜ彫刻家になったのか。
なぜ美術家と呼ばれるのか。
なぜそのような問いかけをさせるのか。
大野綾子は何者。
ほら、あの表面の引っ掻き傷は人間技ではないぞ。
ほーら、あの緩やかなカーブは舌と尻尾がなくては。
ネコ科の動物、どうもそうらしい。
なぜかそのような答えをしたくなる。
永井祐(歌人)
大野さんの彫刻は有機的というか、大きな生命体から一部分をもぎとったら、その部分がまた命を持ったのか、もぞもぞと動きだしたみたいな、そんな感じがします。生きてないけど、動きそう。話せないけど、仲良くなれそう。すごいものではなく親しいもの。高いところではなく、わたしたちとともにあるもの。
富塚亜希子 (友人・ライター)
数年前の綾の作品はよくわかんなくて、私自身を試す『踏み絵』みたいでドキドキしたけど、最近の作品は「かわいい」とか「欲しぃ~」とか感想が言いやすくなりました。でもわかりやすさに満足はしていないのだろうなと思います。
戸谷森(画家)
はっきりと前面と背面を意識させる彫刻。側面の形は、表面と裏面を繋ぐ役割を伴うように感じられる。平面的なイメージを立体物として存在させるための「辻褄合わせ」に起因する形の現れとも思える。それが当然のごとく世界に存在出来てしまう物の在り方と印象の違う点で、魅力的な形の歪みや捻れを呼び込む一つの要因かもしれない。まるで此処に存在してしまう事に慣れていないものが、存在の仕方を模索している最中のようにも感じる。
結城加代子(KAYOKOYUKI)
大野綾子の彫刻は、脳内のイメージが正確にスキャニングされ、まるで3Dプリントのごとく具現化されている。そしてそこに付加されるのは、彼女の脳細胞からのびる約30000に至るコネクションを通して決定された、質感という価値である。石という素材を扱う彫刻家の、現代における正当な継承者と言えるのではないだろうか。
言葉なお耳にあり
「チャンネルライト」の開催前に、特定の方へinvitation(紹介状)を送付し、限定的に行われた展覧会。
大野、田中共にチャンネルライトの出品内容と一部異なった内容で展開。
「チャンネルライト」と「言葉なお耳にあり」はそれぞれが自立した二つの展覧会でありつつも、大野と田中による一つの展覧会でもあるという両義性をはらんでいる。
Photo by Tsuyoshi Satoh
言葉なお耳にあり
普通の生活。
何よりも大切で、何よりも難しい。
慣れや飽きは一人になってしまうほどの恐怖だから、
いつもと違う事を行動する。
すると、いつもがなぜいつもなのかわかる。
そうなったら恐怖ではなく温かいような身体からでる生緩いような、
確実に温度のあるものに進化する。
それは何にも変え難いもの。
大野綾子