以下、田中良太と栗原一成との対談の抜粋です。今回の企画のコンセプトが垣間見ることができます。
《田中良太×栗原一成 2012.2.9》
栗原 自分がこの展覧会名を聞いた時に想像したことがあります。
仮に、一ヶ月間毎日あなたの名前を教えて下さいとひとに聞かれたらどうするかと。
田中 その状況って自分のボキャブラリー(語彙)のなかにある複数の言語を事細かく確認していくことですよね。信じるものを追求して出した答えが確信になる頃には、またその答えを疑って迷っていくことの繰り返しになります。でもそれはそんなに特別なことじゃない。
普通のことだけど簡単なことでもない。終わりが無いですから。
その中で僕は疑うっていうことに少し偏るかもしれない。
栗原 絵を描くっていうことは、もしかしたら他者から一ヶ月間毎日自分の名前を聞かれることに近いのかもしれません。それにしても何故わたしたちは自分自身を疑うことに過敏になってしまうのでしょうか。
田中 僕の場合は、何かに従属することでケリをつけるような考え方だとつまらないからです。
絵を描いていくことは居場所を見つける為にやっている訳では無いですし、日々変わる自分を認識し、曖昧な世界の中で今日自分が生きていることを信じることでもあるように思います。
栗原 田中さんが言う何かに従属するということを絵画におけるイメージに置き換えるならば、イメージという特定の意味を持った絶対的な価値を設定して、それを再現するために自分の為すことが決定されるということ。だけど田中さんの絵を観ているとそのようなイメージの扱われ方はしていない。
田中さんにとっての絵画におけるイメージとはいったいどういうものでしょうか。
田中 僕がイメージという言葉をつかうときは、もう割り切ってそれは言語ですって言ってしまうんです。
ただしその言語に引きずられない様にしないといけません。なので、かなり意図的にその言語を突き放していくのです。その一環として一枚の絵に複数のイメージを介入させます。
それは無関係なものでも良いのです。僕が現した時点で繋がっていますから完全に無関係とも言えませんけど。そういうイメージのぶつかりでひとつひとつ自立した状態になると思います。
つまり絵画にとっての一つのイメージには支配されたくないのです。
冷静に考えてみれば一つのイメージで絵画が形成されるなんて実は不可能なのです。
不可能であるにもかかわらずあたかもそういった絵が存在するように見せるなんてかなり権威的だし、自分はそういった絵は描きたくないです。
栗原 日本という国は、明治維新から現在まで中央集権というシステムで社会が形成されています。
しかし最近そのシステムとはまったく真逆なシステムが唱えられています。それは橋下徹大阪市長が掲げる「大阪都構想」です。「大阪都構想」とは、まずは個人が責任を持って街づくりを考えていく、そして次にその意志を市町村としての基礎自治体が受け行動に移す、そして広域自治体がまたその意志を受け、結果として国がつくられていくというものです。
それは「ニア・イズ・ベター」という思想で、身近なところで決めた方がよいという考えです。
それはどこか田中さんが言っている複数のイメージがそれぞれ自立していき絵画がかたちづくられるという考え方と似ている気がします。
「大阪都構想」が日本の体制改革となるならば、田中良太の絵画もまた、絵画のあり方そのものを問い直す存在となるでしょう。
田中良太 Ryota Tanaka
1983年生まれ
2008年 多摩美術大学卒業
主な展覧会
2011「りょうたといっせいとたけと」ゲルオルタナ/東京
2011「怪物の音色」ZAP 瑞聖寺アートプロジェクト/東京
2010「ワンダーシード 2010」トーキョーワンダーサイト渋谷/東京
2009「KOMAZAWA MUSEUM X ART」駒沢公園ハウジングギャラリー/東京
2008「THE NEXT 」 Gallery Stump Kamakura /神奈川
2008「横浜アート&ホームコレクション展」横浜ホームコレクション/神奈川
ディレクションとして参加
2011「未視感ハミング/岡田裕子 原良介 松原壮志朗」ゲルオルタナ/東京
2011「誰かの鳴らす音/河田政樹 友清ちさと」ゲルオルタナ/東京
Sentimental Duplicate
2011 Acrylic on canvas
194.0×130.3cm
The twilight reeling or dim light reeling
2011 Acrylic on canvas
162.0×130.3cm